Hatena::Groupshibuism

むすめのうみ

2007-02-16

ハロヲタ・エクソダス 12:44

やっと自分以外が出したテーマに答えられる。このところずっと自分の出したお題に(他の方があまり答えられていないのに)自分で答え続けるという、薄ら寒い苦行が続いていたので、いや、書くことそのものは楽しかったし、また、誰も褒めてくれないので自分で褒める(この姿勢は「メタリカちゃん」におけるシヴイさんの先の更新の多大なる影響を受けている。自分リスペクト!)けれど、こないだ書いた「大きな愛でもてなして」の感想文は、さいきん使っていなかった神経を刺激するようにして、久しぶりに一生懸命なにかを書いたなあ、格闘できたなあ、という感じがして、まあよかった。閉じないで、思いつくたび、永遠に追記する。感想を書くために何度もyoutubeを再生していて、そうしたほうがよいような気がしたからだ。「大きな愛でもてなして」について、どれだけ書いても書きすぎるということはない。と思う。だいたい書けば書くほど、書けない、という思いが強くなり、そしてそう思うことは、よいことだと思っている。


***

ハロヲタの辞め方、について。まず、ぼくは自分をハロヲタであるという風にあまり考えません。ハロヲタでありたくないということではなく、むしろその逆なのですが、そういうことを言う資格(というのはヘンな言葉ですが)がないように思う。それはぼくのなかに、ある考えが固定されているからです。

ぼくが自覚しているのは、自分は社会的にちょっとアブノーマルなほど飽きっぽい人間だ、ということで、ゆえに、いかなる種類の自分の熱中も信用しないことにしている。実際、ハロプロについても、2002年~03年くらいに一度ものすごく没頭し、そこから3年近く、興味を完全に失ったわけではないけれど、凪の状態というか、疎遠になっている状態が続き、昨年、たまたまSEXY BOY」をミュージックステーションで観たことから、関心が再燃した。そのかん、CDも買っていないし、ライブにも行っていないし、ハロモニすら数えるくらいしか観なかった。そのような経緯があるから、熱中を対外的に宣言することは、極力、控えることにしている。またそうしてしまうと、万が一、飽きたときにその気持ちに従うことが、難しくなるのではないか、という思いもある。

ぼくは要するに、ハロヲタの辞め方、がわからないから、ハロヲタであるという風には自分で考えないようにしているのかもしれません。とにかく飽きたら別の場所に移動するという原則は、死守しておきたい(これは何に対しても言えることで、自分の信条のようなものですが)。飽きているのに、その場に留まったり、その気持ちをなかったことにするのは、ぼくにとって、あまりよいことがない。

ぼくが最も嫌うのは、ハロプロでもなんでもそうですが、飽きている、あるいは対象に魅力を感じなくなっているのに、しつこくその場に留まって、楽しんでいる人たちに冷や水をぶっかけるように、批判的な言動をとるという行為です。楽しめなくなっているのなら、黙ってその場を去ればいい、と本当に思う。なぜわざわざ昔のことや、自分の感覚を持ち出して、批判的な言動をするのか、それは現にそれを楽しんでいる人たちに対してとても失礼なのではないか、という思いがあるので、飽きたときには速やかに場所を移動、という前提は確保しておきたい、そのため、ハロヲタであるという風には自分であまり考えないようにしている、という長いわりに実もない話でした。

ハロプロを好きでなくなるということは、完全に好きでなくなるということは、ちょっと考えにくいのですが、関心が低下していって、くすぶる火種くらいになるということは、考えられる。それはもう、ただの自分の気分の問題なので、どうこうなるというものではない。自然にまかせたい。やめよう!と思って、やめるということは、別にやめる理由もないというか、そもそも意識してはじめたものではないから、考えにくく、なので、具体的な辞め方はちょっとわからない。現実的に考えると、ハロプロの誰かと交際関係に発展したときには、ハロプロのファンであることをやめると意識してやめるかもしれません。何一つ現実的ではない。あるいは逮捕され拘留されたらハロプロのファンであることはやめるというか、やめざるをえないでしょう。こっちのほうが現実的です。

ぼくがこのテーマで書こうとしたとき、真っ先に頭に浮かんだのは、リチャード・マシスンというSF作家が書いた「終わりの日」という短編小説でした。地球滅亡の日を淡々と描写して号泣必至。マシスンは人間が縮むとか自分以外全員吸血鬼とか最高にアホな小説ばかり書いたやつですが、たまにこういうエモーショナルなものを書くから侮れない。「終わりの日」にはマシスンの他の短編に見られる奇想天外な要素はまったく見られない。本当にただ「終わりの日」を描いただけの小説で、最終的に行き着く結論というか、場所も、シンプルで明快です。滅亡していく地球の上で、最後に胸の中に残るもの。ちょっと最後のほうを引用します(いくつか訳があるが、引用河出文庫20世紀SF②』の、安野玲さんの訳)。大事な部分みんな引用してしまうので、これから読むという方は以下を読まないほうがいいかもしれません。


主人公母親の家に行って、みんながそうするように、滅亡の瞬間に備えて、睡眠薬を飲もうとする。しかし母親はそれを飲もうとしない。)


どうだっていい。たくさんだ。どっちみち、こうやって燃える空の下で木偶のようにすわりこんで、地球を呑みつくそうとしている巨大な太陽を見つめることぐらいしかできないんだから。もう不安さえ感じない。あまりにも長いあいだ恐怖に苛まれたせいで、感覚が麻痺してしまった。

「あのさ」ようやく、リチャードは口を開いた。「なんで? なんで宗教の話をしないの? いいんだぜ、べつに」

母親がふりかえる。茜色の光に染まった顔は、信じられないぐらい優しかった。

「必要ないわ。このあとは、ずっといっしょにいられるんだし。信じなくたってかまわないのよ。わたしがふたりぶん信じるもの」

それだけだった。リチャードはまじまじと母親を見つめる。その信念と強さは、奇跡だった。

「それ、飲みたいならかまわないわよ。膝枕していてあげる」

リチャードの体に震えが走る。「ほんとに?」

「いちばんいいと信じていることをなさい」

どうしたらいいのかわからなかった。不意に、世界の終わりにひとりきりでぽつんとすわりこんでいる母親の姿が、頭に浮かんだ。

「いっしょにいる」気がついたときには、そう口にしていた。

母親がほほえむ。「気が変わったらおっしゃいね」

無言のまま時が過ぎる。

やがて、母親がぽつりという。「きれいだこと」

「きれい?」

「そう。神さまはわたしたちのお芝居に、こんなにきれいに輝く幕を引いてくださるのね」

そんなことはどうでもいい。肩を抱くと、母親が寄り添ってきた。そう―ひとつだけ確かなことがある。

最後の日の黄昏に、こうしてふたりでいるということ。役に立とうと立つまいと、おたがいを誰より愛しく思っているということ。ただそれだけは。


書き写してたら、あんまりいいんで、最後まで引用してしまいましたが、読めばわかるとおり、この短編のなかで、最終的に主人公の胸に残るのは愛です。また、母親の台詞が印象的です。太陽が膨張して地球を飲み込もうとしている空をながめ、「きれい」と言う。「神さまはわたしたちのお芝居に、こんなにきれいに輝く幕を引いてくださる」。ぼくはできたら、こんな不真面目なファンにはそんな機会は与えられないかもしれませんが、できたらハロヲタ最後の日には、こういう気持ちになりたい。例えばハロプロが解散する日には、こういう気持ちになりたい。そのとき胸に残るのは、きっとハロプロから貰った、教わった、感じた、あらゆる種類の愛であると思います。

yomayomayomayoma2007/02/16 19:14僕も気張って書きたいと思います。ありがとうございます。takiko17発火点です。

takiko17takiko172007/02/17 04:10いえ。こちらこそ。ぼくこそ発火点は常に(というと言い過ぎかもしれませんが、九割九分は)ヨーマさんですよ。女の子ファシズムを見ることから朝がはじまるのです。