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むすめのうみ

2007-06-06

結婚ということ 00:44

結婚は、したい人はすればいいし、したくない人はしなければいいのではないでしょうか。当たり前のことですし、話が終わってしまいますが、基本的にはそれしか思いません。また、したいのにできない人はするためになんか頑張ればいいし、したくないのにしなくちゃいけない人はおとなしく諦めるか最後まで抵抗するかすればいいと思います。というのが私自身の今現在結婚観です。

私自身の結婚観、といいましたが、普通結婚観を表明するという場合のそれとはすこし異なって、言う必要のない前提の部分を述べただけですので、あらためて、私自身が、私自身の結婚をどう考えているか(それが普通のいわゆる「結婚観」であると思います)、について書きますと、正直、リアリティがなさすぎて何もわかりません。どちらかというと結婚をしたいとは考えていないほうに分類されるかもしれません。嘘を書くのも面倒なので、本当のところを書きますと、自分で自分を結婚できるほどの大人(私は結婚を大人がする行いだと考えています。この頑なな考え自体が、既に幼稚な子供の考えなのかもしれません)であるとは、どうしても思えませんので、結婚をする、なんだそれ、すげー他人事、まあできるならしたいけどねえ、くらいにしか思っていません、あくまで今現在は。ただ現実的に、ずっと一人で暮らしていくのか、と考えると、さみしい、不安、誰かにそばにいてほしい、とJ-POPの歌詞っぽいことを考えてしまうときもあるし、また逆に、同じ人間とずっと一緒に暮らしていくということには、今は想像すらできない困難がつきまとうのだろうという感じもする。

とはいえ私は冷静に何かを考えているようで、その場のノリで行動した結果正当化するためにあとで理屈をこねるタイプですので、状況に酔っ払って簡単に求婚して、気付けば妻帯者になっているかもしれない、そして、もしもそこで断られるとかしたら、まあそれはそれ、ということで、普通に真顔で生きていくと思います。たぶんそもそも、結婚ってそんな甘いものではないから、そのくらいの考えしか持っていないなら、結婚なんか一生できないのでしょう。金もかかるし、金とかホントないし。

そんなこたどうでもよくって、ハロプロ結婚についてです。辻さんがご結婚されるそうで、おめでたいことです。みんな同じことを考えているのかもしれませんが、とにかく、あの辻ちゃん結婚かあ、すごいなあ、と思いましたが、よくよく考えると、よくよく考えなくても、年齢も年齢だし、現実的には性行為やその他の密かな愉しみに耽っていても、なんら不自然ではない。辻さんのファンの方は、結婚の報を聞いて、苦しい思いをしたかもしれません。したかどうかは知りませんが、したかもしれませんが、それを想像して私がどうこう言うのもなんか、失礼というか、切実さが足りないし、わざわざそれについて述べる必要性も感じないので、必要性なんか最初から何に対してもないのですけれど、まあなんか、そうですか、すごいなあ、と思ったくらいでした。総じて、辻さんの結婚会見は、なにか遠い世界の出来事のようでした。あの映像を夕方のニュースで見たとき、大きい透明なガラスの向こう側で起こる出来事を、ガラス越しに眺めているような感覚で、ガラスこっち側にいる限り、面倒もないかわりに触れることもできない、そういう距離を保ったまま、見物しているという気がした。

他のハロプロの人が結婚したとしても、陣内とノリカが結婚したのと同じくらいに、おめでたいことだなあ、と思うくらいで、たとえば悲しみの類の感情は、生まれないと分かりました。ハロプロの特定の誰かに、恋をしていないので、そう思うのかもわかりません。アイドルに対する恋愛であれ、現実人間に対する恋愛であれ、どっちでもかまわないのですが、それが恋愛と呼ばれるところのものであると、自信を持って言うことのできるような状態に、あんまりなったことがないし、なりたいとも特には思いません*1。好きな人ができたとき、それが現実女性だった場合、私は、恋愛でなくてもかまわないから、というかそんなんどうでもいいから、とにかくずっと一緒にいたいと思うし、いやたぶん、その過程のあれこれが世の中の普通恋愛なんでしょうけれど、それはあとからそう呼ぶ、呼ばれるだけで、一緒にいることさえ優先されていれば、なんでもかまわない、と思う。好きな人がアイドルだった時には、どうするか、しかもその相手が、辻さんみたいに、急に結婚発表したりした場合、どうするか、なったことがないので、想像するしかないけれど、泣いて、忘れて、それで終わりじゃないか、と思う(そうじゃないかもしれないけれど)。失恋ってすごくつらいだろうなあ、できれば、したくないなあ、と思います。

結婚恋愛という文字にして、名づけることより切ない、生の感情の連続を、ぼくは好みます。もういっそ、ハロプロの人は全員、結婚すりゃいいのに、と思いますし、結婚してる人を好きになることだって普通にあるんだから、集団結婚ライブとか、やれば行くのに、と思います、行かないけど、人の幸せな顔はどうしてか、心の奥底でイラッとくるので。結婚については、何もわかりません。

*1:嘘です。本当はしたいです。可愛い女の子イチャイチャしたり、気持ちを通わせあったり、したいに決まっています。

2007-04-23

ハローでもっとも嫌いなメンバーとその理由(ガチンコで) 00:58

正直に書きます。嫌いというほどのことはない。チキンあるいは偽善者と思われるかもしれないし、というか誰にどう思われたってかまわないのですが、嫌いというほどのメンバーはいない。それは、ぼくがハロプロを見るときには、楽しかったり、好きだったり、嬉しかったり、といった肯定的な感情のみを抽出して接するからで、抗うこともできずにまるごと持ってかれて、好悪のコントロールも効かなくなるような接しかたには、最初からずっと、なれないし、ならないからです。ある意味で、嫌いと感じることがないくらいにしか、好きではないということかもしれませんし、それとはまったく異なる、たんなる私自身の先天的な欠落かもしれません。しかしそもそも、嫌いということをはっきり自覚し、それを表明できるほどの強い感情を、アイドルに限らず、特定の個人にたいして抱くことが少ない。嫌いになるとして、それより先に、無関心になります。ひとたび誰かを嫌いになると、自分で自分の嫌いという感情がうっとうしくなるので、嫌いになるまえに、できるだけ嫌いになりそうな人とは関係をなくします。どうしても関係し続けなくてはならない場合には、その人の話している言葉を鼓膜のあたりで宇宙語に変換したり、その人の見た目を網膜のあたりで大根オブジェに変換するなどして、その人間の基本的な尊厳ごと、あくまで秘密裏に踏みにじり、存在を殺します。これは嫌いになるよりもずっと、陰険なやり方であり、こういうことをしているから、ときどき自己嫌悪嘔吐しそうになる。無関心なメンバーならいくらでもいます。まずハロプロエッグの人たちには、関心がありません。ぜんぜん知らない子どもたち、という風にしか思わない。℃-uteにも、それほど強い関心はない。モーニング娘。で言えば、六期メンバーぐらいまでしか、動く姿を頻繁に目にしていないので、小春ちゃん光井さんには、個人的に強い関心を持っていない。しかしこういうことを書いて、なんになるというのか。好きではないということをいくら自覚したところで、心が乾いていくばかりだし、おまえが関心があろうがなかろうが、知ったことかよ、わざわざ書くなバカ、と思うので、もう書きません。書きたくないからです。嫌いって・・・。嫌いなわけがない。あんなに可愛い女の子たちが、歌って踊るようすを見て、だめ!嫌い!と思えたら、なんか、それはそれで凄い。嫌い!と思う人は最初からその場に立ち会っていないんじゃないか、というより、やっぱり、それは好き!が変形した嫌い!なのではないか、という気がすごくする。橋本治が以前どこかで、憎しみという感情をアフォリズム風に解説して、好きという感情がうまく通っていかなかったときに発生する、みたいに書いていた、ちょうどそういうことなのではないか、知らんけど。やっぱり私は嫌いになるほど何かを好きになれないだけなのかもしれない。そういえば、(森林さんも書かれていましたが)花音ちゃんのブログは疲れているときに読むと、そうとう食傷します。そのときどきの話題を自然に宣伝もおりまぜつつピックアップし、さまざまな手法を駆使し記事にしたてあげ、途切れることなく更新するようすは、いやほんと、感嘆するしかないのですが、なんとなく、たまに読んでいて、ミュータント、という言葉が浮かぶときがある。ブログミュータント、かのん・・・。あと、私は写真うつるときに口角をあげ、アヒルっぽい口をする女性に対して、ひとしく敵意を抱いているという、異常な性格の持ち主ですので、いくら子供さんであるとはいえ、花音ちゃんの可愛らしい口角あげスマイルには、冷たい眼差しで対応しているということを、ここに告白しなくてはなりません。

2007-04-07

駅前の大ハプニング 03:39

また一ヶ月以上さぼってしまいましたが、何事もなかったかのように、淡々テーマに答えます。実際、わたしに限っていえば、べつに何事もなかった。例えば、のはなしです。街で偶然ハロプロの誰かに出会ったとして、現実的には、気づかないフリをします。有名人に出会った際には、おそらく多くの人が、このような反応をとるのではないでしょうか。シャイだからというより、面子の問題という気がする。有名人がいるからってはしゃがない俺(かっこいい)、都会人たるものそうでなくちゃいけないんだぜ、向こうだってプライベートなんだしさ、みたいな、しょうもない自意識。意識しすぎて逆にかっこわるい。そもそも、わたしは外を歩く際、人といるときを除いて、ほぼ地面を凝視しながら歩くので、有名人に遭遇した経験がありません。唯一、頻繁に遭遇しているのが、アラーキーです。新宿で三回くらい見ました。ゴールデン街付近に行くとだいたい見る。三回目には、荒木、またいる、という感じがした。またいる、というのは別に自分も同じなのですが。もっとも興奮したのは、東京駅筒井康隆を見かけたときです。駅の外でタバコを吸ってらした。信者といっていいくらいのファンなので、話しかけて、サインを貰おうか、すごく迷ったけれど、結局、遠くから愛を込めて、見つめるだけでした。逆にもっとも興奮しなかったのは、先ごろご結婚された見栄晴を最寄り駅の近くで見たときです。パジャマズボンを履いて自転車を漕いでいた。悪ノリ大好きな中学生の時分だったため、友人数名とともに、自転車で追跡したら、パジャマズボン履いてる分際で、すごい漕ぎ方をして去ってゆき、ぜんぜん追いつかなかった。見栄晴速かった。その速さにはじゃっかん興奮した。ハロプロの誰かも、有名人であることにかわりはないので、無視して素通りしたのち、振り返って後姿を凝視する、くらいが想像しうる自然な反応だと思われます。誰に会いたいかというと、誰に会いたいということもないのですが、強いて言うなら、メロン記念日に会いたい、会ってファンですと自然に言えそうなので。解けていく靴紐を見つめながら歩いているので、現実ハロプロが横を通過しても、きっと気づかない。

2007-02-22

普通:ハロプロテキスト遍歴を告白する 20:11

ぼくが現在ハロプロテキストの書き手の一人として誰かに認められているのかどうか、いまいち定かではないですし、またぼく自身、自分がハロプロテキストを書いているという意識を、強く持ったことはないように思います。ぼくの考える(理想の)ハロプロテキストは、例えばエロ火さんやシヴイさんやwesnさんが書かれているような(このお三方をぼくの便宜で一緒くたにするのも失礼で、それぞれに個性的な美質があるように思うのですが)、話題としてはハロプロに特化しながらも、書かれている言葉のうちにさまざまな方向に豊かに開いていくもの、です。そのような理想と自分の書いている、書くことのできるものがあまりに違いすぎるため、ハロプロテキストの書き手であると胸を張って言うことはできない(しかしそんなことを胸を張って言う人が果たして存在するだろうか)。つまり、ぼくにとって、書くほうのハロプロテキスト遍歴は、いまだ語るべき内容を持たない、というのが実感です。なのでここではもっぱら、読むほうのハロプロテキスト遍歴を告白することになると思われます。それはとりもなおさず、まさしく「告白」の名にふさわしい、ぼくからの一方的な、愛の表明になるはずです。また、いかなる種類の書き手も読み手から出発するというか、書き手でありながら読み手でありつづけるのですから、ぼくがどのような読み手であるかということを告白することで、どのような書き手であるか(ありうるか)ということも、炙り出されるかもしれません。

すこし余談ですが、ぼくにとって、インターネットハロプロテキストを書くのが面白いのは、それが一人で書くものではないからです。物理的には一人で書いているのですが、ひとつのテキストには目に見えない穴がいくつも空いていて、そこから他のテキストに流れ込み、吹き込み、触れられ、繋がっている。好きなサイト更新をあらかじめ読むことが、書く内容に影響を及ぼさないはずがない。例えば、最近になって、このグループがまた少しずつ活性化しているのも、全体が活性化していること自体がひとつひとつのテキストを活性化させそれがすなわち全体の活性化につながるという、不断の相互影響の中で起こってくる現象だと思える。ぼくは自分一人でなにか新しいことを書いているつもりはまったくなくて(当たり前ですが)、他のハロプロテキストや、あるいはそのほかのテキストや、1000年前に書かれたテキストから、常に影響を受けながら、アメーバのように繋がった全体の一部として、それを書いているという意識がある(一言であらわすと間テキスト性というようなことです)。特にハロプロテキストにはそのような繋がりを強く感じますし、グループ日記となればなおさらでしょう。


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余計な話が長引いてしまいました。ここからが本題です。サイト名には敬称を略します。また登場するサイトはすべて、現存する場合、継続して今も読んでいます。恥ずかしいのでリンクはしません。

ぼくが初めて読んだハロプロサイトは、「今日はなんだか」というサイトです。宝島社から出たムックに「今日はなんだか」の方が記事を書いておられ、興味を持ち、検索して辿りつきました。そこでまず、ハロプロテキストってこんなに面白いのか!と衝撃を受けます。インターネットでなにかを書くということ、いわゆるテキストサイトのようなものについても、まったくの無知でしたので、その衝撃は初めて味わう類のものだった。「今日はなんだか」のリンクを辿って、色んなサイトを読むようになった。その中でもっとも読み込んだのが「パラエク」というサイトでした。今は「うさストリームス」という名前になっています。そのころは確か「パラエク」という名前でした。そこに書かれている文章のクオリティはハンパではなかったし、嫌味ではないホンモノのインテリジェンスが溢れていて、あこがれた。今でもよく記憶しているのですが、そのサイトにあった、たしか「なっち探偵」と名づけられた短いテキストを読んだとき、ここにはこの形式でしか実現できない何かがあるという風に思えた。いくつかの小ぶりのクリシェと、記憶される映画への愛情と、ピ~スの水兵さんの格好をした一葉のなっち写真。それらが組み合わされ、溶け込んで、出来上がったその短いテキストのうちには、たとえばノート日記を書いたり小説を書くのではなく、インターネット上に文章を載せることでしかあらわすことのできない、ある感慨みたいなものがあるように思えた。その感慨は、未知なのに、懐かしい、不思議なものでした。そこでハロプロテキスト完璧に魅了されました。とにかく大きかったのは、「今日はなんだか」と「うさストリームス」です。

そのあとは一気に、たくさんのサイトに目を通すようになりました。娘。アンテナ存在を知らなかったのですが、自分のサイトが登録されたのをきっかけに知って、いくつかのサイトをそこで知りました。このグループメンバーの方々の日記も、そのあたりから読むようになったんだと思います(「ふっち君の日記。」だけは、好きでもっと前から読んでいました)。

思い出せるのはそのくらいです。最後に、ぼくがいま更新楽しみにしているサイトを、グループメンバー以外で挙げるなら、「下等上等」「恋と神様(と日記)」「はぁ、まぁさ・・・」「一歩目から始まる光井愛佳」「いつでも、どこまでもいっしょのいっしょ」といったところになります。なにか孤独な感じのするサイトを好きになることが多い。

2007-02-16

ハロヲタ・エクソダス 12:44

やっと自分以外が出したテーマに答えられる。このところずっと自分の出したお題に(他の方があまり答えられていないのに)自分で答え続けるという、薄ら寒い苦行が続いていたので、いや、書くことそのものは楽しかったし、また、誰も褒めてくれないので自分で褒める(この姿勢は「メタリカちゃん」におけるシヴイさんの先の更新の多大なる影響を受けている。自分リスペクト!)けれど、こないだ書いた「大きな愛でもてなして」の感想文は、さいきん使っていなかった神経を刺激するようにして、久しぶりに一生懸命なにかを書いたなあ、格闘できたなあ、という感じがして、まあよかった。閉じないで、思いつくたび、永遠に追記する。感想を書くために何度もyoutubeを再生していて、そうしたほうがよいような気がしたからだ。「大きな愛でもてなして」について、どれだけ書いても書きすぎるということはない。と思う。だいたい書けば書くほど、書けない、という思いが強くなり、そしてそう思うことは、よいことだと思っている。


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ハロヲタの辞め方、について。まず、ぼくは自分をハロヲタであるという風にあまり考えません。ハロヲタでありたくないということではなく、むしろその逆なのですが、そういうことを言う資格(というのはヘンな言葉ですが)がないように思う。それはぼくのなかに、ある考えが固定されているからです。

ぼくが自覚しているのは、自分は社会的にちょっとアブノーマルなほど飽きっぽい人間だ、ということで、ゆえに、いかなる種類の自分の熱中も信用しないことにしている。実際、ハロプロについても、2002年~03年くらいに一度ものすごく没頭し、そこから3年近く、興味を完全に失ったわけではないけれど、凪の状態というか、疎遠になっている状態が続き、昨年、たまたまSEXY BOY」をミュージックステーションで観たことから、関心が再燃した。そのかん、CDも買っていないし、ライブにも行っていないし、ハロモニすら数えるくらいしか観なかった。そのような経緯があるから、熱中を対外的に宣言することは、極力、控えることにしている。またそうしてしまうと、万が一、飽きたときにその気持ちに従うことが、難しくなるのではないか、という思いもある。

ぼくは要するに、ハロヲタの辞め方、がわからないから、ハロヲタであるという風には自分で考えないようにしているのかもしれません。とにかく飽きたら別の場所に移動するという原則は、死守しておきたい(これは何に対しても言えることで、自分の信条のようなものですが)。飽きているのに、その場に留まったり、その気持ちをなかったことにするのは、ぼくにとって、あまりよいことがない。

ぼくが最も嫌うのは、ハロプロでもなんでもそうですが、飽きている、あるいは対象に魅力を感じなくなっているのに、しつこくその場に留まって、楽しんでいる人たちに冷や水をぶっかけるように、批判的な言動をとるという行為です。楽しめなくなっているのなら、黙ってその場を去ればいい、と本当に思う。なぜわざわざ昔のことや、自分の感覚を持ち出して、批判的な言動をするのか、それは現にそれを楽しんでいる人たちに対してとても失礼なのではないか、という思いがあるので、飽きたときには速やかに場所を移動、という前提は確保しておきたい、そのため、ハロヲタであるという風には自分であまり考えないようにしている、という長いわりに実もない話でした。

ハロプロを好きでなくなるということは、完全に好きでなくなるということは、ちょっと考えにくいのですが、関心が低下していって、くすぶる火種くらいになるということは、考えられる。それはもう、ただの自分の気分の問題なので、どうこうなるというものではない。自然にまかせたい。やめよう!と思って、やめるということは、別にやめる理由もないというか、そもそも意識してはじめたものではないから、考えにくく、なので、具体的な辞め方はちょっとわからない。現実的に考えると、ハロプロの誰かと交際関係に発展したときには、ハロプロのファンであることをやめると意識してやめるかもしれません。何一つ現実的ではない。あるいは逮捕され拘留されたらハロプロのファンであることはやめるというか、やめざるをえないでしょう。こっちのほうが現実的です。

ぼくがこのテーマで書こうとしたとき、真っ先に頭に浮かんだのは、リチャード・マシスンというSF作家が書いた「終わりの日」という短編小説でした。地球滅亡の日を淡々と描写して号泣必至。マシスンは人間が縮むとか自分以外全員吸血鬼とか最高にアホな小説ばかり書いたやつですが、たまにこういうエモーショナルなものを書くから侮れない。「終わりの日」にはマシスンの他の短編に見られる奇想天外な要素はまったく見られない。本当にただ「終わりの日」を描いただけの小説で、最終的に行き着く結論というか、場所も、シンプルで明快です。滅亡していく地球の上で、最後に胸の中に残るもの。ちょっと最後のほうを引用します(いくつか訳があるが、引用河出文庫20世紀SF②』の、安野玲さんの訳)。大事な部分みんな引用してしまうので、これから読むという方は以下を読まないほうがいいかもしれません。


主人公母親の家に行って、みんながそうするように、滅亡の瞬間に備えて、睡眠薬を飲もうとする。しかし母親はそれを飲もうとしない。)


どうだっていい。たくさんだ。どっちみち、こうやって燃える空の下で木偶のようにすわりこんで、地球を呑みつくそうとしている巨大な太陽を見つめることぐらいしかできないんだから。もう不安さえ感じない。あまりにも長いあいだ恐怖に苛まれたせいで、感覚が麻痺してしまった。

「あのさ」ようやく、リチャードは口を開いた。「なんで? なんで宗教の話をしないの? いいんだぜ、べつに」

母親がふりかえる。茜色の光に染まった顔は、信じられないぐらい優しかった。

「必要ないわ。このあとは、ずっといっしょにいられるんだし。信じなくたってかまわないのよ。わたしがふたりぶん信じるもの」

それだけだった。リチャードはまじまじと母親を見つめる。その信念と強さは、奇跡だった。

「それ、飲みたいならかまわないわよ。膝枕していてあげる」

リチャードの体に震えが走る。「ほんとに?」

「いちばんいいと信じていることをなさい」

どうしたらいいのかわからなかった。不意に、世界の終わりにひとりきりでぽつんとすわりこんでいる母親の姿が、頭に浮かんだ。

「いっしょにいる」気がついたときには、そう口にしていた。

母親がほほえむ。「気が変わったらおっしゃいね」

無言のまま時が過ぎる。

やがて、母親がぽつりという。「きれいだこと」

「きれい?」

「そう。神さまはわたしたちのお芝居に、こんなにきれいに輝く幕を引いてくださるのね」

そんなことはどうでもいい。肩を抱くと、母親が寄り添ってきた。そう―ひとつだけ確かなことがある。

最後の日の黄昏に、こうしてふたりでいるということ。役に立とうと立つまいと、おたがいを誰より愛しく思っているということ。ただそれだけは。


書き写してたら、あんまりいいんで、最後まで引用してしまいましたが、読めばわかるとおり、この短編のなかで、最終的に主人公の胸に残るのは愛です。また、母親の台詞が印象的です。太陽が膨張して地球を飲み込もうとしている空をながめ、「きれい」と言う。「神さまはわたしたちのお芝居に、こんなにきれいに輝く幕を引いてくださる」。ぼくはできたら、こんな不真面目なファンにはそんな機会は与えられないかもしれませんが、できたらハロヲタ最後の日には、こういう気持ちになりたい。例えばハロプロが解散する日には、こういう気持ちになりたい。そのとき胸に残るのは、きっとハロプロから貰った、教わった、感じた、あらゆる種類の愛であると思います。

yomayomayomayoma2007/02/16 19:14僕も気張って書きたいと思います。ありがとうございます。takiko17発火点です。

takiko17takiko172007/02/17 04:10いえ。こちらこそ。ぼくこそ発火点は常に(というと言い過ぎかもしれませんが、九割九分は)ヨーマさんですよ。女の子ファシズムを見ることから朝がはじまるのです。